英文学の作法と書き方が頭の中にあったからではないか。, ・「―君は他ならぬディドロの模倣をした。 ―ペトロニウスはルキアノスを模倣した。そしてルキアノスも、たくさんの人の 「『エヴァンゲリオン』以来のショックを受けた」と語った。, メールアドレス: 2019年、香港では「逃亡犯条例」の改正問題をきっかけに抗議デモが起こりました。なぜこのような反発が生じるのか、歴史を振り返りながら、デモの原因や中国との関係をわかりやすく解説していきます。, 中国広東省の沿岸部、深セン市の南部に位置する地域を「香港」といいます。香港島、九龍半島、新界と呼ばれる島しょ部に分かれていて、2017年現在の人口は約740万人。市街地は香港島北部と九龍半島に集中していて、人口密度がきわめて高いことでも有名です。, 周囲は天然の良港になっていて、古来より貿易拠点として発展してきました。現在は観光地としても栄えていて、その数は年間6500万人以上。「百万ドル」と称される夜景は、「世界三大夜景」に数えられています。, 中国の一部でありながら独自の行政機関をもち、独自の法律が運用されているのが特徴。このように高度な自治権を認める制度を「一国二制度」といい、この制度が適用される地域は「特別行政区」と呼ばれます。中国では、香港とマカオが「特別行政区」です。, 香港が、特例といっても過言ではない「一国二制度」となった背景には、後述する歴史が深く関わっています。「アヘン戦争」後の1842年から1997年までイギリスの植民地だった香港は、経済をはじめとするさまざまな制度が中国本土と異なっていました。イギリスから返還される際に、円滑に統治するために「一国二制度」を適用することになったのです。, その結果、法律の体系は植民地時代とほぼ同じで、中国本土とは異なり資本主義にもとづく政策が実施され、死刑制度もありません。公用語は中国語(広東語)のほかに英語も用いられています。, 政治的、経済的、文化的な差異があることから、香港には強権的な中国政府に対する不信感があるといわれています。たとえば1989年に「天安門事件」が発生した際、香港議会は中国政府の武力行使に対するけん責を全会一致で採択、各地で反発のデモもみられました。中国本土ではタブーとなっている「天安門事件」の追悼も、香港では公におこなわれています。, 2019年には、中国本土へ容疑者の引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」の改正案をめぐって、大規模なデモが発生。催涙弾や火炎瓶が使用され、怪我人も多数発生する事態になっています。, ここからは、香港の歴史を詳しく振り返りながら、デモの原因など中国とすれ違っている理由を解説していきましょう。, 香港周辺には、旧石器時代から人が居住していたと考えられています。2006年に、香港東部の黄地ドウから約4万年前のものと推定される旧石器が見つかり、話題になりました。, その後、紀元前214年に秦が現在の広東省付近に進出して「南海郡」を設置。香港周辺も秦に支配されることになります。しかし紀元前206年に秦が滅亡すると、紀元前203年に現在の広東省からベトナム北部にかけて「南越国」が成立。一時、地域一帯が中国王朝から自立しました。, 「南越国」は100年ほど続きましたが、その後漢に征服され、以後さまざまな中国王朝が香港周辺を支配します。唐の時代には、香港近郊の広州市が貿易の拠点として発展。現在の新界一帯に「屯門軍鎮」が設置されました。, さらに明の時代になると、ポルトガル人などヨーロッパ人が来航。この頃から、史料内に「香港島」という地名が登場するようになります。香港という名前の由来は定かではありませんが、一説によると地域一帯が香木を集積する港湾として機能していたことからきているといわれています。, 清の時代になると、イギリスと朝貢の形式で貿易をするようになり、広州が貿易の窓口に。しかし三角貿易を通じてアヘンが清に密輸されるようになると、これがきっかけで1840年に「アヘン戦争」が勃発します。, 結果は、イギリスが勝利。講和条約として1842年に「南京条約」が結ばれ、これによって香港はイギリスに割譲されました。ここから約150年間、イギリスの植民地となるのです。, 1856年に勃発した「アロー戦争」では、九龍半島南部もイギリスに割譲。さらに「日清戦争」後は西欧列強による「中国分割」が進展します。その過程で九龍半島北部と新界地域を99年間租借することが決まり、現在の香港全域がイギリスの統治下に置かれるようになりました。, イギリスは統治機関として香港政庁を設置。あわせてイギリス資本の進出にともない、競馬場や大学、図書館、劇場などさまざまな設備が作られます。その結果、中国本土とは異なる法制度や文化が発展していったのです。, 1941年12月に「太平洋戦争」が勃発すると、開戦直後より日本が香港を攻撃します。12月25日にイギリス軍が降伏すると、日本が敗戦するまでの約3年8ヶ月、香港は日本軍の軍政下になりました。クリスマスにイギリス軍が降伏したことから、香港ではいまでもこの日を「黒色聖誕節(ブラック・クリスマス)」と呼ぶそうです。, 日本は統治期間中、それまで使用されていた香港ドルを強制的に回収し、代わりに「軍票」を発効。しかし無計画に「軍票」を発行したため経済が混乱し、さらに日本の敗戦で価値がなくなったため、その補償を求める抗議がおこなわれました。, 日本軍が撤退した後は、再びイギリスによる統治が再開されます。「国共内戦」を経て中華人民共和国が成立すると、社会主義をきらった中国人の資産家や、経済の混乱や弾圧から逃れようとした人々が香港に流入。彼らは「逃港者」と呼ばれ、この資本と労働力の流入が、戦後の発展の基盤となりました。, 1970年代後半になると、租借期限が近付いたことで今後の香港の在り方が議論されるようになります。イギリス首相だったマーガレット・サッチャーと、中国の指導者鄧小平の間で交渉がおこなわれます。, この時サッチャーは租借の継続を目指しましたが、鄧小平は武力行使もちらつかせて反発したそう。交渉は最終的にサッチャーが折れる形でまとまり、1984年に「中英共同声明」が発せられ、「1997年にイギリスから香港が返還されること」「返還後50年間は社会主義政策を実施しないこと」「外交と軍事以外の面で高度な自治を保障すること」などが決められたのです。, この声明にもとづき、香港は1997年7月1日にイギリスから返還。「中華人民共和国香港特別行政区」が成立しました。しかしその後、中国政府による干渉が強まりつつあり、これが後述する「逃亡犯条例」改正への抗議デモ拡大に繋がっていくのです。, まずひとつ目は、先述した中国政府に対する不信感です。香港には「逃港者」のように中国政府から逃れてきた人々が暮らしています。しかしイギリスから中国に返還された後、徐々に言論統制や選挙干渉が生じるようになり、強権的な中国政府によって自分たちの自由が奪われることを警戒するようになっていったのです。, ふたつ目は、香港で暮らす人々は、その歴史的な経緯から自分が「中国人」だという意識をあまりもっていないことが挙げられます。, 2019年6月に香港大学が実施した調査によると、18歳から29歳の若者の75%が「自分は香港人」と回答した一方で、「自分は中国人」と答えた若者は2.7%にとどまりました。中国本土と香港では歴史的な背景が大きく異なり、帰属意識についても大きな隔たりがあります。これも中国政府への反発に繋がっているといえるでしょう。, 最後に、今回の抗議デモの発端となった「逃亡犯条例」の改正についても、大きな問題点が指摘されています。, そもそも「逃亡犯条例」は、香港が協定を結んだ国や地域に、罪を犯した容疑者を引き渡す制度です。2019年現在、香港はアメリカなどと協定を結んでいる一方で、中国本土やマカオ、台湾などとは協定を結んでいません。しかし2019年2月、香港議会でこれらの地域とも容疑者の引き渡しを可能にする改正案が提出されました。, この改正によって、中国当局が香港市民を取り締まることができるようになったのです。中国政府に批判的な立場をとる人物が、中国本土に引き渡される可能性が出てきました。, 長い間認められてきた香港の自治が揺らぐことに対する警戒心や反発が、デモの原動力になっているといえるでしょう。, ここまでで説明してきたように、返還時に決められた「一国二制度」は岐路に立たされています。本書は、1997年から2017年の香港の動きを、政治と経済の観点から迫り、「一国二制度」の実態についてまとめたものです。, 緻密な取材を背景に、香港を取り巻く情勢がわかりやすくまとめられているのが特徴。また、チベットやウイグル、台湾と中国の関係にも通じる要素があることが理解できるはずです。, 香港をとりまく歴史や経済だけでなく、人口動態やサブカルチャーなど60の項目について解説した作品です。日本の漫画やアニメが香港に与えた影響など、ほかの書籍ではなかなか知ることができない情報を取りあげているのが特徴になっています。, その一方で、複雑な選挙制度や国籍の在り方など、専門的な分野もしっかりまとめられていて、さまざまな観点から香港の姿に迫ることができるでしょう。, 本書が刊行されたのは2016年のことなので、2019年に起きたデモについては触れられていませんが、2014年に発生した「雨傘運動」と呼ばれる抗議デモについてはまとめられています。これは香港の特別行政区政府に対する抗議として起こったもので、どのようにして発生したのか、どう解決したのかを知ることで、2019年に生じたデモが今後どうなっていくのかを考えるきっかけになるでしょう。. 戦国ブームにより、各地の戦国武将が人気を集めていますが、四国を治めた長宗我部元親もその中のひとり。姫若子と呼ばれた過去も持つ長宗我部元親が、どのような人物で、どんな生涯を歩んだのかを知ることができるおすすめの本を5冊ご... 仕える主君を何度も変えたことから、「風見鶏」や「世渡り上手」などあまり良くないイメージもある藤堂高虎。しかし、本当にそうなのでしょうか。波乱の戦国時代を勝ち残っていったのには、それなりの理由があるはずです。この記事では... 織田信長や豊臣秀吉に仕え、徳川家康と対等に渡りあった前田利家。そしてそんな夫の力を十二分に発揮させることに力を尽くした妻のまつ。NHK大河ドラマの題材にもなったため、名前を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。... かつて戦国という動乱の時代を生きた人々がいました。今回は、下剋上が当たり前の厳しい世の中を彗星のごとく駆け抜けた男たちの生き様を描いた歴史小説を、ランキング形式で5作品ご紹介します。, 様々なジャンルを乱読しちゃうフリーライター。信念は「読み手に届く言葉」を書くこと。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。. 赤シャツはイギリスに行ったことがある。   作者(ホメーロス)だということになっても。」 【ホンシェルジュ】 室町幕府の権威が失墜した15世紀末から16世紀にかけて、「力こそが正義」だった動乱の時代が戦国時代です。守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも強ければ戦国武将になれる実力社会でした。裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。 鉄砲をもっていって族長を殺して、女を犯して、 « 『そんなんじゃクチコミしないよ。』 | ―コッカイウスはペトロニウスを模倣した…… | 『パラダイス鎖国』 », ・「なぜなら植民地支配というのは武器をもっていないところへ 『kate』×エヴァンゲリオンとコラボ口紅を数量限定発売! 綾波レイ”はじめての口紅”ビジュアル公開【11月4日よりWebにて予約受付を開始】 2020.10.08 【ホンシェルジュ】 2019年、香港では「逃亡犯条例」の改正問題をきっかけに抗議デモが起こりました。なぜこのような反発が生じるのか、歴史を振り返りながら、デモの原因や中国との関係をわかりやすく解説していきます。 | yunyun2479(歴史好き) 日本でも馴染みのある「モカコーヒー」の発祥国イエメン。古代から栄えていましたが、たび重なる内戦で、現在はもっとも渡航困難な国のひとつといわれています。この記事では、大国に支配されてきた歴史、独立の経緯、そして内戦などに... ペルシア湾の湾岸にある小さな国、クウェート。巨大な油田があり、現在は石油産業で経済が成り立っています。一方で「湾岸戦争」の要因がイラクによるクウェートへの侵攻だったことも有名で、これまで数多くの危機にさらされてきました... テロリズムの温床、泥沼の紛争地という印象が強いアフガニスタン。一体どのような経緯で争いの場となってしまったのでしょうか。この記事では紀元前からさかのぼり、アフガニスタンの歴史をわかりやすく解説していきます。理解が深まる... 世界最大の国土面積をもつロシア。言わずと知れた超大国ですが、一体どのような経緯で現在の姿になったのでしょうか。この記事では、キエフ・ルーシ時代からロシア帝国、革命、冷戦、ソ連崩壊などロシアの歴史をわかりやすく解説してい... 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室町幕府の権威が失墜した15世紀末から16世紀にかけて、「力こそが正義」だった動乱の時代が戦国時代です。守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも強ければ戦国武将になれる実力社会でした。裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。とにかく一斉に天下統一を目指しだしたため、わかりにくく複雑な時代でもあります。この記事では戦国時代の流れをわかりやすく説明し、さらに理解を深めるおすすめの関連本をご紹介していきます。, 実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった時代。明確な年代の線引きはありませんが、1467年に起きた「応仁の乱」から、徳川家康が天下統一をして江戸幕府を開くまで約140年間とされています。, 武力で権力を勝ち取る風潮が広がり、多くの地に戦国武将が生まれました。きっかけは、「応仁の乱」による室町幕府の権威の失墜。それまで争いを避けていた領主たちが一国の主を目指し、自分の土地を広げようと各地で争いはじめたのです。, ちなみに、戦国時代に活躍した名のある武士はみな「武将」です。そのなかでも豪族などの国人たちを鎮圧して独自の領地を支配していた武将を「戦国大名」といいます。下克上でのし上がった大名と、勢力を拡大させた守護大名が戦国大名になる場合がありました。, 1467年 応仁の乱(~1477年まで)戦国時代のはじまり1543年 鉄砲伝来1549年 キリスト教伝来1560年 桶狭間の戦い1570年 金ヶ崎の戦い、姉川の戦い1571年 比叡山焼き討ち事件1573年 室町幕府が滅亡、朝倉家・浅井家の滅亡1574年 長島一向一揆1575年 長篠の戦い1576年 織田信長、安土城の築城開始1577年 松永久秀の謀反1579年 安土城天守閣の完成1580年 石山合戦の終結1582年 本能寺の変 、山崎の戦い1583年 賤ヶ岳の戦い1584年 小牧・長久手の戦い1585年 羽柴秀吉、関白に任命される1586年 羽柴秀吉が太政大臣に就任、豊臣姓を賜る1587年 豊臣秀吉によるバテレン追放令の発令1588年 豊臣秀吉による海賊禁止令、刀狩り令の発令1590年 小田原の役 奥州平定が終わり、豊臣秀吉による天下統一1592年 文禄の役…1度目の朝鮮出兵1596年 慶長の役…2度目の朝鮮出兵1598年 豊臣秀吉、死去1599年 石田三成襲撃事件1600年 関ヶ原の戦の勃発1603年 徳川家康が征夷大将軍に就任、江戸幕府が開かれる, では戦国時代の詳しい内容を見てみましょう。なかでも天下人の道を歩んだ、織田信長と豊臣秀吉を中心に解説していきます。, 南北朝の分裂時代を経て、足利尊氏が開いた武家政権の室町幕府。1467年に起こった「応仁の乱」は、8代将軍・足利義政時代に起こった後継者争いです。, もともとは、義政の子・足利義尚(よしひさ)を推す母親の勢力と、義政の弟・足利義視(よしみ)を推す勢力との戦い、さらに管領(かんれい)家などの跡目争いなどが一緒になったものでした。加えて当事者たちが細川勝元と山名宗全のそれぞれに頼ったため、二大勢力の戦いへと発展します。, この大乱は、1467年から1477年まで約11年間続きました。結果としては9代将軍・足利義尚が誕生するのですが、この時すでに将軍の権力はなく、将軍を守る立場の菅領家も衰退。義尚の死後、足利義稙(よしたね)が継ぐも、管領の細川政元に追われて逃げ出すなど、足利家の権力はどんどん衰えていきます。, 一方で守護大名の力は増していき、隣同士の領主の争いや、神社や荘園を武力で横取りするなど、国内の混乱はひどくなるばかりです。, このように戦国時代の前半は、各地の豪族同士の領地の取り合いがメインでした。しかし後半になると、ある程度周辺を治めた大名同士の戦いへと変化していきます。, 最初に、下克上にて戦国大名へと上りつめたのが、北条早雲です。もともと駿河の守護大名だった早雲は、伊豆を支配し、相模を支配下に置きました。彼が登場したことをきっかけに下克上が本格化し、「地位ではなく武力こそがものを言う」戦国時代が始まったのです。, そのほか東海地方では、斎藤道三が僧侶から承認を経て美濃の戦国大名へ成り上がりました。, 天下統一まであと一歩のところに迫ったことで知られる織田信長が、一目置かれる存在となったのは、1560年の「桶狭間の戦い」です。今川軍およそ2万5000に対し、織田軍はおよそ2000。圧倒的に無謀だと思われた戦いで見事勝利したことをきっかけに、信長は尾張の一大名から天下人を目指すようになりました。, ちなみにこの戦いで今川家が敗北したことに紛れて、徳川家康は人質から独立しています。, その後信長は、斎藤道三の孫・龍興(たつおき)を破って稲葉山城へ入城し、足利義昭を室町幕府15代将軍に担ぎ上げて自らも入京。このころから彼は「天下人になるために、まずは京都を制してから全国を支配しよう」と考えるようになります。, 一方、そのように政治権力を握る信長のことを、義昭は気に入りません。義昭はやがて浅井氏、朝倉氏、武田氏と組んで「信長包囲網」を築きます。, しかし延暦寺が焼き討ちにあい、「金ヶ崎の戦い」や「姉川の戦い」によって朝倉氏、浅井氏は滅亡。1573年には義昭が京都から追放され、室町幕府は幕を閉じました。, その後、「信長包囲網」を撃破するために、信長は当時最強の戦国大名といわれていた武田勝頼と戦います。これが1575年に起こった「長篠の戦い」で、信長が生涯でもっとも武才を評価される戦いでもあります。勝頼軍に長篠城から迎え撃たれるも、信長軍の最先端武器を使った鉄砲隊と「馬防策」で大勝利を収めました。, 勝頼に勝ったことで調子づいた信長は、誇示を込めて1576年から安土城の築城を開始します。, さらに市や座を廃止して自由取引を認める楽市令を発し、城下町の商業発展を促しました。京都一帯だけでなく、近畿地方や中部地方の大部分を平定し、着々と地盤を固めていきます。, しかし、このほかの地域には、彼に従うことを拒否する者たちがいました。宗教勢力もそのひとつです。当時の宗教勢力は組織力も結束力もあり、信徒集団の自治で国を治めたいという動きがあったため、各地で戦国大名と対立していたのです。, 寺社が権力を持つことや武装することを非常に嫌っていた信長は、「長島一向一揆」「越前一向一揆」を次々に平定。, 1580年にはついに一向宗の総本山である石山本願寺の顕如(けんにょ)を屈服させ、宗教勢力を完全に抑えることに成功します。1570年から11年もの間くり広げられた石山本願寺との戦いを「石山の戦い」といいます。, また、中国地方を治めていた毛利氏も、信長に従わない大名のひとりでした。そのため信長は、羽柴秀吉を総大将として、中国地方最大の大名だった毛利氏を討つように命令します。自らも出陣のため京都の本能寺に泊まっていたところ、家臣の明智光秀に裏切られてしまいました。これが「本能寺の変」です。, 信長の死後、毛利氏と和睦した羽柴秀吉は京へ引き返し、その足で明智光秀を討ちます。これを「山崎の戦い」といいます。これによって秀吉の地位は向上し、1583年には柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。北陸を平定しました。, 1583年には石山本願寺の跡地に大阪城を築城。大名だけでなく、宗教勢力も支配下に置いているというアピールをしたのです。, 1584年には「小牧・長久手の戦い」で織田信雄・徳川家康軍と和睦。翌年には長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を服属させ、四国を平定します。関白、太政大臣に就任し、豊臣姓を賜った秀吉は、全国に「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、勝手な私闘の停止。反発した大名は討伐するとしました。, 1587年には、秀吉に反抗的だった島津義久を服属させて九州を平定。そこでポルトガル人による日本人奴隷の売買現場を見た彼は、博多で「バテレン追放令」を発します。これはキリスト教を禁止したものではなく、宣教師を追放するものでした。, 1590年には北条氏を滅亡、さらに伊達政宗を服属させ、関東と奥州を平定し、信長の死後から約8年で全国統一を完成させました。, 統一後、1592年と1597年の2度に分けて朝鮮出兵をおこないます。次の目標を中国の明に設定し、手はじめに朝鮮の服従を要求したのです。, 最初の出兵である1592年の「文禄の役」では、肥前の名護屋に本陣をおき、釜山に上陸。加藤清正の軍勢は中国との国境沿いの豆満江(とうまんこう)のあたりまで進軍しました。, 日本が有利なうちに和平交渉を進めましたが、朝鮮との交渉は決裂。そのため、1597年に2度目の出兵が実行されます。しかし1598年に秀吉が死去したことで、中止になりました。, 秀吉が亡くなってからの豊臣政権は、安定しません。徳川家康が独自に勢力を拡大し、伏見城で政治の実権を握ったため五大老が崩壊します。石田三成と真っ向から対立したことをきっかけに、1600年「関ヶ原の戦い」が勃発しました。, 戦自体は、わずか1日で決着。家康の圧倒的勝利で終わり、光成軍は処刑や領地に没収をされます。「関ヶ原の戦い」で家康の権力は明らかなものとなり、3年後「征夷大将軍」に就任したことをきっかけに江戸幕府を開きました。ここに戦国時代は幕を閉じ、以後平和が続く江戸時代へ移っていくのです。, 天下統一の寸前まで成し遂げた、三英傑のひとりです。短気で癇癪持ちだったといわれていますが、約束事を破ることはなかったそう。秀吉の夫婦喧嘩を仲裁するなど、繊細な性格でもあったそうです。, 1534年に尾張国(愛知県)で生まれ、家督を継いで10年ほどかけて尾張国を統一しました。美濃の制圧を済ませ、京に上洛すると足利義昭を室町幕府15代将軍にさせますが、その後関係が悪化。義昭を中心とした「信長包囲網」に苦しめられます。, その後1573年、武田信玄の死をきっかけに室町幕府を滅ぼし、朝倉氏・浅井氏を滅亡させます。, 延暦寺を焼き討ちして宗教勢力と対峙。冷徹なイメージがある一方で、商業の発展にも尽力しました。楽市楽座の経済政策や関所の廃止など、これまでになかった新しい政策を次々と打ち出していったのです。, 農民から戦国大名まで成り上がり、天下人に。関白と太政大臣を経験した三英傑のひとりです。知的で人懐こい性格、世渡り上手でした。約300人の女性と関係があったといわれるほど、女好きだったそうです。, 織田信長が本能寺にて死んだ後、彼はすぐに上方に戻り、信長の仇として明智光秀を討ちました。その後、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家に勝ち、「小牧・長久手の戦い」を経て天下統一を成し遂げます。, 国内の政治については信長の構想を継承しつつ、太閤検地や刀狩りなどを命じ、農民の一揆を封じていきました。2度の朝鮮出兵をおこない、これが秀吉政権のなかで加藤清正などの武断派と、石田三成などの文政派の対立を生みます。, 1528年、美濃国の斎藤道三の家臣、明智光隆の子として生まれます。鉄砲など最新技術の習得が速く、一方で和歌などの教養もあり、知的で品のある人物だったそうです。8歳で家督を相続し、はじめは斎藤道三に仕えていましたが、彼が滅ぼされてからは転々とした生活をするようになりました。40歳のときに尾張国の織田氏に仕えます。, 1571年の比叡山焼き討ちを実行したことで、近江国志賀郡5万石を与えられ、織田家家臣のなかでは1番の出世頭となりました。しかし1982年、秀吉とともに毛利氏との戦いに出陣するよう信長に命を受けたにもかかわらず、軍を京に転進させて信長のいる本能寺を急襲します。, 急襲自体は成功しましたが、細川忠興・細川幽斎親子からの支持を得られずに孤立。わずか10日後に秀吉と対峙し、敗走の途中の竹やぶで落人狩に遭い亡くなったといわれています。, 1539年に土佐で生まれた長宗我部元親。他の豪族を支配して勢力を拡大し、一条氏を滅亡させたことで「四国の覇者」といわれる戦国大名に成長しました。幼いころは軟弱で色白な容姿だったそうで、周囲からは「姫若子」と馬鹿にされていたそうです。, 初陣は1560年の「長浜の戦い」。槍の突き方も知らなかった元親ですが、いざ戦いが始まると敵軍の中央を突破し、2人を討ち取る活躍をしました。, 家督を継いだ後は、さらに勢力を拡大。1575年の「四万十川の戦い」で一条兼定に勝利し、土佐の統一に成功します。, その後、明智光秀を通じて信長に四国進出を伝えた元親は、阿波・伊予・讃岐へ侵攻。1585年にはほぼ四国を統一しました。しかし急激な勢力拡大に機嫌を損ねた信長が、秀吉に四国征伐を命令。これに降伏し、結果的に領地は土佐一国となります。さらなる四国攻撃が予定されていましたが、「本能寺の変」で信長が死去したことで、中止されました。, 元親はもう1度四国全土を征服するも、10万もの大軍を率いた秀吉による再度の四国征伐に敗北。その後は秀吉の九州征伐や小田原攻め、朝鮮出兵にも貢献します。秀吉の死後まもなく、元親も亡くなりました。, 江戸幕府の初代征夷大将軍であり、三英傑のひとりです。戦国時代の終止符を打った戦国大名としても有名です。, 1542年に、三河国(愛知県)を治めていた松平広忠の長男として生まれました。幼いころから人質に出されていましたが、転機となったのは1560年の「桶狭間の戦い」です。織田信長によって今川義元が討たれたことで、家康は今川家から独立しました。, 同盟を結んだことにより「信長包囲網」に巻き込まれた家康は、戦国最強の武田信玄と対峙。この時は敗北を喫しましたがが、信玄が亡くなった後、武田勝頼との戦に勝利します。信長が「本能寺の変」で亡くなると、「小牧・長久手の戦い」で秀吉の家来になりました。, ある時は信長に、ある時は秀吉に服従することで、天下を取る機会をうかがっていた家康。秀吉の死は、まさにその時だったのです。, 一般的には1日2回。庶民は主に、粟や稗(ひえ)、黍(きび)などの穀物、米は「大唐米」という赤米です。収穫量が多くて安価のため、盛んに育てられていました。おかずは、味噌や山菜、野草を用いた料理です。地域によっては牛や馬、鹿、猪などの肉や、魚なども調理していました。, 一方で武士は、いつ戦が始まるかわかりません。そのため食事は早朝に米を一気に炊き、午前8時ごろと午後2時ごろに分けて食べていました。夜遅く起きている時は午後9時ごろにも夜食を食べていたそうです。一汁一菜で、玄米や雑穀中心。1回でお茶碗5杯分も食べていたそうです。, 運動量が多いため、濃い味付けが好まれていました。裕福な者は、おかずとして野菜や海藻、かまぼこや納豆、梅干しや漬物などを食べていました。中級以下の武士はおかずがない場合も多々あったそうです。, ちなみに織田信長は、味噌で味付けした焼き鳥、大根やしいたけの煮付けと、ご飯にお湯をかけたものを好んだそう。豊臣秀吉は豆味噌を混ぜたおにぎりや麦飯を主食とし、タコやイカなどを好んで食べていました。天下人になってからは鯛やマツタケなど、全国区から豪華なものを取り寄せていたそうです。, 徳川家康は「長寿こそ勝ち残りの源」と考え、普段から健康に気を配っていました。薬も自ら調合し、質素な麦飯を好みます。当時の平均寿命が30歳から40歳だったにもかかわらず、彼は70歳を超える長寿をまっとうしたことからも、いかに健康的な食生活を送っていたのかがわかるでしょう。, 携帯食としては、おにぎりや餅、煎餅、干し柿、納豆、干物、梅干し、焼き味噌を丸めたものなどが代表的。グルメと名高い伊達政宗は、戦中でもおいしく食べられるように凍り豆腐を開発したといわれています。, 服装は階級によって異なります。武士の正装は裃(かみしも)。小袖の上から肩衣(かたぎぬ)と袴を着用していました。肩衣は麻などで作ったものが多く、袴と同じ生地で作られ、両胸と背中には紋が入っていました。, 一方で庶民の男性は動きやすい小袖だけを着用。麻の着物を自作していたそうです。暑い夏は袖がない服にふんどし姿でした。, 武家の妻や姫などは、きれいな着物に色羽掛、髪も手入れしていました。当時は桃山小袖といった豪華な打掛型の小袖が流行し、高貴な女性ほどオーダーメイドの着物を着用。高級なものは市場ではなく、固定して商品を並べる「見世」で販売されていました。, 庶民女性は主に小袖を着用し、畑仕事で汚れてもいいものを着物。男性と同じく、自ら育てた麻で自作していました。, ちなみに当時は、下着をはくという概念がありません。武家の女性たちの間では、徐々に「腰巻」という衣服の下に着けるものが流行しますが、庶民女性は何もはいていませんでした。かがめば丸見えになることが日常茶飯事だったそうです。, 作者はお笑い芸人。まるでトークライブを聞いているような歴史物語が描かれています。よくある教育本とは違い、武将の心の声が会話に反映されて、面白おかしくストーリーが進んでいくのです。, なかでもメインになっているのが、「関ヶ原の戦い」と真田一族について。流れを追うだけでなく、各武将のしたことや人物像などにも触れています。, 歴史はただの暗記物ではなく、物語なのだとあらためて感じさせてくれるでしょう。苦手意識のある人にぜひ読んでもらいたい一冊です。, 単純な敵・味方の構造ではなく、「なぜ戦が勃発したのか」「どんな経緯をたどったのか」「その後どうなったのか」が整理して描かれています。, たとえば信長の楽市楽座令や関所の廃止などの政策と、他の武将の商業発展を比較したり、武田家の経済力や上杉家の税収方法を分析したり……いつの時代もお金がなければ人間は動かないということがわかります。, 武力だけが力ではない、軍資金集めに奮闘する彼らの姿を見ると、少しイメージが変わるのではないでしょうか。.

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